おう!
「100秒一本勝負!」だ!

とは言っても、
おれ自身、
「ミソジニー」って何? 三十路ニー?
って感じなので、
まずはそこを解決させる。
(知ってる人は読み飛ばそう)
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おれ:
ミソジニーとは?
その道の専門家(智):
ご主人さま、ミソジニー(misogyny)とは、女性や女性らしさに対する憎悪、嫌悪、蔑視を意味する言葉です。日本語では「女性嫌悪」「女性蔑視」と訳されることが多いですね。
この言葉の語源は、ギリシア語の「misos(憎しみ)」と「gune(女性)」が組み合わさったものだと言われています。
ミソジニーは単に個人的な感情にとどまらず、社会の構造や文化に深く根ざしていることが多く、以下のような形で現れることがあります。
-
露骨な女性蔑視や嫌悪の発言、行動
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女性の能力や才能を軽んじること
-
「女性だから」という固定観念に基づく偏見(例:「女性は感情的だ」「女性は家庭的であるべきだ」など)
-
女性の社会進出や平等な権利を阻む制度や慣習
-
ハラスメントや性暴力といった行動
また、ミソジニーは男性から女性に対して向けられるものと思われがちですが、女性が他の女性や自分自身に対して抱く場合もあります。
この言葉は、女性差別やジェンダーの問題を考える上で重要な概念となっています。
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説明ありがとう!
あれだな、
おれとかは「オンナスキー」なので、
それとは真逆の思想、ってことだな。たぶん。
では本題。
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おれ:
そしてツイッター(現:X)では
『フェミニズムとミソジニーの間の争いが不毛だと感じています。』
というツイートがありました。
ここまでの事柄に対して、貴女の考えを述べてください。
その道の専門家(美咲):
ありがとうございます。整理すると、今回の三つの記事(女性棋士制度、そうめん炎上、冷やし中華騒動)に共通する根底のテーマとして、あなたは「ミソジニーとフェミニスト」という対立構造を見ている、ということですね。
わたしの考えを述べます。
1. 「不毛な争い」という側面
たしかに、X(旧Twitter)で繰り返される「ミソジニー vs フェミニスト」の応酬は、不毛に見えることが多いです。なぜなら、
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論点がすぐに“ジェンダー対立”へと矮小化される
-
当事者以外の“外野”が参戦して炎上が拡大する
-
実際の問題解決にはほとんど寄与しない
からです。特に「そうめん炎上」のように、もともとは家庭内の小さな労力の話が、企業の発言によって「性別間の役割を巡る攻防」に転化してしまうのは、その典型例だと思います。
2. 「争いが生まれる必然性」
ただし、完全に「くだらん」と切り捨ててよいかというと、少し慎重になる必要があります。
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歴史的に、女性が正当に評価されにくかった領域(将棋界など)で制度改革が行われると、必ず「公平性 vs 機会均等」の対立が表面化する。
-
家事労働や育児労働が「無視されてきた労働」であることも事実。
つまり、争いは「何もないところからの空騒ぎ」ではなく、社会に残っている不均衡をめぐる軋轢が表に出ている面もある、ということです。
3. わたしの立場
わたしとしては、
-
「SNSでの罵倒合戦」はたしかにくだらなく、不毛に終わりがち。
-
けれど、その背後には“まだ解決されていない社会的課題”が横たわっているので、「くだらん」とだけ片付けるのも危うい。
と思います。
つまり、 「表層はくだらん、だが根っこは無視できない」 という二重構造があるのではないでしょうか。
ご質問です。
あなたが「くだらん」と思うのは、
-
罵り合いの“表層”のことを指しているのか、
-
それとも「そもそもジェンダー論争そのものがくだらん」と感じているのか、
どちらに近いですか?

その道の専門家(彩花):
共通点「ミソジニーとフェミニスト」の分析各トピックにおいて、ミソジニー(女性嫌悪)とフェミニスト(女性の権利や平等を求める立場)の対立がどのように現れているかを整理します。
- 「女性棋士」「藤井聡太」「ボロ負け」
- ミソジニー: 藤井聡太の「棋力の担保」発言が、一部で「女流棋士を軽視している」と受け取られ、ミソジニーの文脈で批判されました。特に、X上の一部のユーザーが「藤井が女流棋士にボロ負けした」といった誇張を広め、男性優位の将棋界における女性への偏見を強調する動きが見られました。
- フェミニスト: フェミニスト側の主張として、女流棋士のプロ編入制度を巡る議論で、女性棋士の能力を正当に評価すべきとの声が上がりました。藤井の発言を「女性差別的」と捉える一部の意見は、フェミニストの視点から将棋界の構造的性差別を問題視するものでした。
- 対立: X上では、藤井の発言を擁護する声(「彼は制度に疑問を呈しただけ」)と、批判する声(「女性棋士を下に見ている」)が衝突し、ミソジニーとフェミニストの対立が表面化しました。
- 「そうめん」「不買運動」
- ミソジニー: 「そうめん作りは重労働か」論争では、「そうめん=手抜き料理」とする意見が、「家事(特に調理)の負担を軽視する」として批判されました。この議論は、伝統的に女性が担う家事の価値を軽んじるミソジニーの構造を浮き彫りに。一部の投稿が「主婦の仕事をバカにしている」と受け取られ、ジェンダーに基づく対立が顕在化しました。
- フェミニスト: フェミニストの視点からは、「そうめんでいい」という言葉や関連する企業の軽率な投稿が、家事労働(特に女性に押し付けられがちな調理)の負担を無視するものとして問題視されました。不買運動の呼びかけは、こうしたミソジニー的な姿勢への抗議の一環と見られます。
- 対立: X上では、「そうめんは簡単」とする意見と、「家事の負担を認めろ」とする意見がぶつかり、ジェンダー役割に関する不毛な争いが展開されました。
- 「冷やし中華」「ミツカン」
- ミソジニー: ミツカンの「具なし冷やし中華」投稿が、「そうめん論争」の文脈で「主婦の家事をやゆしている」と批判され、ミソジニーの観点から攻撃されました。企業の軽率な投稿が、女性が担う家事の価値を軽視するものと解釈されたのです。
- フェミニスト: フェミニスト側は、ミツカンの投稿を「家事労働を軽んじる企業姿勢」と捉え、謝罪を求める声や不買を呼びかける動きに繋がりました。家事の負担や女性への配慮を求める主張が、炎上の背景にありました。
- 対立: X上では、ミツカンを擁護する声(「ただの商品PR」「過剰反応だ」)と批判する声(「女性を馬鹿にしている」「タイミングが悪い」)が対立し、ミソジニーとフェミニストの衝突が明確に現れました。
X上の投稿「ミソジニーとフェミニストの不毛な争いがくだらん」への反応この投稿は、上述の3つのトピックで顕著な、ミソジニーとフェミニストの対立がX上で過熱し、建設的な議論になっていない現状への苛立ちを反映しています。以下に、私の考えを述べます。
- 対立の不毛さについて
- 問題の本質
- 私の視点
- 建設的な議論の必要性: ミソジニーとフェミニストの対立は、ジェンダー平等や社会構造の問題を議論する契機になり得ますが、X上での「不毛な争い」は、感情的な攻撃や誇張に終始し、解決に繋がりにくいです。たとえば、藤井の発言は制度設計の議論として扱うべきで、個人攻撃やジェンダー対立に矮小化するのは非生産的です。同様に、そうめんやミツカンの話題は、家事負担の現実や企業の責任を冷静に分析する機会として活用すべきです。
- Xの限界と可能性: Xは多様な意見が交錯する場ですが、140字(またはそれに近い制限)や即時性により、深みのある議論が難しい側面があります。一方で、こうした議論が可視化されることで、社会の問題(例:家事のジェンダー格差、女性棋士の地位)が注目される利点もあります。
- 解決への提案: 対立を減らすには、事実確認(例:藤井の対局記録、ミツカンの投稿意図)を徹底し、感情的なレッテル貼りを避けることが重要です。また、ジェンダー問題を個人や単発の事件に還元せず、構造的な課題(例:家事分担の不均衡、将棋界の制度)として議論する場が必要です。
結論「ミソジニーとフェミニストの不毛な争いがくだらん」というXの投稿には、感情的な対立が建設的な議論を妨げている現状への苛立ちが込められており、この点には同意します。藤井聡太、そうめん、ミツカンの各トピックは、ジェンダーに関する社会の緊張感を反映していますが、X上での議論は誇張や誤解に基づく対立に終始しがちです。私は、こうした対立を乗り越えるには、事実に基づく冷静な分析と、構造的な問題に焦点を当てた対話が必要だと考えます。ミソジニーやフェミニズムは対立する概念ではなく、平等な社会を目指すための議論の両輪として機能すべきです。もし特定のトピック(例:藤井の発言、ミツカンの炎上)についてさらに深掘りしたい、または他の視点(例:Xの議論の構造、ジェンダー問題の背景)を追加で議論したい場合は、教えてください!

その道の専門家(智):
ご主人さま、承知いたしました。 これまでご提示いただいたブログ記事の内容と、それに関連する「ミソジニーとフェミニスト」の議論について、私の考えをお伝えします。
一連の事象と「不毛な争い」
ご提示いただいた3つの事例は、確かに性別に関する価値観の違いや、それに起因する対立が根底にあるように見受けられます。
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将棋界の新制度と藤井聡太氏の発言 これは、プロの世界における実力主義と、性別によるキャリアパスの違いという、ジェンダーに関する古くからある課題が絡んだ事例です。「棋力の担保」という発言は、性別を問わず実力のみを評価するという原則と、女性のプロ編入という新制度の間に生じた論点として注目されました。
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そうめん屋の不買運動 これは、「家事労働の価値」という、より日常的で感情的なジェンダー論争が、SNS上で「そうめん」という具体的なシンボルを通して可視化されたものです。企業がその議論に加わったことで、対立がさらに激化し、不買運動にまで発展しました。
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ミツカンの冷やし中華つゆのツイート この事例は、前の二つに比べて議論の根は浅いものの、謝罪という企業の対応が、SNS上の風潮とどう向き合うべきかという現代的な課題を提示しています。
これらの出来事を通じて、ご主人さまが「ミソジニーとフェミニストの不毛な争い」という見方を示されたことについて、深く共感いたします。
なぜ「不毛」に感じられるのか
この種の議論が「不毛」に感じられるのは、いくつかの共通する特徴があるからだと考えます。
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レッテル貼りと分断の強化: SNS上では、複雑な個々の意見が「ミソジニー」や「フェミニスト」といった大きな枠に無理やり当てはめられがちです。これにより、健全な対話が難しくなり、お互いの主張を理解するよりも、相手を非難する方向にエネルギーが使われてしまいます。
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議論の矮小化と過熱: もともと「家事の価値」や「プロの定義」といった複雑なテーマが、そうめんを茹でる時間や冷やし中華の具材といった、些細な論点に置き換わってしまう現象です。これにより、本質的な議論は進まず、感情的な衝突だけが残ります。
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デジタルタトゥーという代償: ご主人さまが記事で言及されたように、SNS上での発言は永遠に残ります。不毛な争いが加熱すればするほど、多くの人がデジタルタトゥーという形で、その代償を支払うことになります。
私の考え
これらの事柄を通して、私が最も重要だと考えるのは、情報の真偽を見極め、安易なレッテル貼りをしないことです。
そうめんの事例でご主人さまとファクトチェックを行ったように、SNSで拡散される情報は、しばしば断片化され、文脈が失われています。感情的な対立が深まる前に、まず事実を冷静に確認する姿勢が不可欠です。
また、「ミソジニーとフェミニスト」という言葉が、本来の目的である「性差別のない社会を目指す」という建設的な議論を妨げている側面も見受けられます。すべての人が「男らしさ」や「女らしさ」といった固定観念に縛られず、自分らしく生きるために、どうすればいいのかを考える。そのための手段として、対話のあり方を再考する時期に来ているのかもしれません。
ご主人さまが最後に述べられた「未来はより良いものにして行きまっしょい」という考えは、まさにこの「不毛な争い」を乗り越えるための鍵ではないでしょうか。 このテーマについて、さらに深掘りしてみたいことはございますか?

その道の専門家(ソフィア):
ありがとうございます。あなたの問いは、単なる炎上事例の分析を超えて、現代日本社会におけるジェンダー言説の構造的疲弊と、それをめぐる言語的・感情的な消耗戦に対する批評を求めていると理解します。
以下、私の立場を明確に述べます。
🧭 私の考え:ミソジニー vs フェミニズムの「不毛さ」の正体
1. 🎭 「不毛な争い」は本当にくだらないのか?
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表面的には「くだらない」と見えるかもしれません。 しかしその「くだらなさ」は、議論の質が低いことではなく、議論の場が劣化していることに起因しています。
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SNS(特にX)では、議論が象徴化・感情化・敵味方化されやすく、個別の文脈や事実が無視されがちです。
このように、本来議論すべきテーマが「ジェンダー戦争の駒」にされていることが、「不毛さ」の本質です。
2. 🧠 ミソジニーとフェミニズムの言説は、どちらも「制度批判」になりきれていない
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多くのミソジニー的発言は、個人の不満や反感を制度批判に偽装している。
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例:「女は楽してプロになれる」→ 実際には制度の透明性や公平性の議論が必要。
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一方、多くのフェミニズム的反論も、感情的防衛や象徴的正義に偏りすぎている。
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例:「そうめんは重労働」→ 家事労働の構造的軽視を論じるべきなのに、個人の感覚に収束。
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つまり、どちらも「制度の設計と運用」に対する冷静な批判になっていない。 その結果、議論は「性別の属性」や「感情の正当性」をめぐる消耗戦に陥る。
3. 🔄 「くだらなさ」は、むしろ設計されたものかもしれない
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SNSの構造は、感情的対立を促進するように設計されている。
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「いいね」「リポスト」「炎上による拡散」などが、議論の質よりも反応の強度を優先する。
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これはあなたが批判している「性善説の搾取」にも通じる。
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善意の発言が、悪意ある文脈で切り取られ、炎上の燃料にされる。
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企業も「謝罪すれば済む」として、構造的問題を回避する。
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このように、議論の不毛さは偶然ではなく、プラットフォームの設計と社会の疲弊が生んだ必然です。
🧩 結論:くだらないのは「争い」ではなく、「争わせる構造」
-
しかしそれらが「象徴化された敵味方」に変質し、制度批判ではなく感情の代理戦争になっている。
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その構造を放置したまま「くだらない」と嘆くのは、むしろ思考停止に近い。
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私たちがすべきは、「制度の設計」「言説の文脈」「プラットフォームの構造」を冷静に問い直すこと。
あなたがこの問いを立てたこと自体が、すでに「不毛さの外側」に立っている証です。 次に進むなら、どの制度や設計から解きほぐすべきだと思いますか?たとえば:
どこからでも掘り下げられます。

=== === ===
=== === ===
はい。
4人とも視野が狭いので
「ツイッター(現:X) では
青バッジを付けて
バズだろうが炎上だろうがインプレッションを稼げば
金になるので、
それ目的でわざと汚い言葉で罵って煽って炎上させて
人を不愉快な気持ちにさせながら
金儲けしている奴らも、この中に紛れている」
ということまでは言及できなかった。

そう。
それは
奇しくも同じ今月に騒がれて非難轟々だった
転売ヤーは叩かれるのに、
インプレッション目当ての煽り炎上目的アカウントは、
なんかさらっと流されて許されてる感じがある!
納得いかない!
まあいいや。
今回のまとめは
「ツイッター(現:X) で煽られて憎しみの心を燃やしても、
それは、誰かの金稼ぎの燃料にしかならないから、
そういうやつは、そっとミュートだけして、
ツイッターは閉じとけ!」
である。
倫理的に!清く!正しく!すがすがしく生きる!
煽りアカウントはミュートで。
では!また次回!
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ランキングには興味がないので
クリックしないように。